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No.32 塩飽本島(しわくほんじま)

/ 100年住宅を考える

 

岡山県児島港を940分発の定期便に乗船して、瀬戸内の多島美を巡ると30分で静かな塩飽本島に着いた。地図では本島というが、この島は塩飽諸島の中心で戦国時代から塩飽水軍として活躍した由緒ある島だから、島の人は塩飽本島と言っている。ちょうどお盆に休日が重なり、ほぼ満室の乗客が港に降り立った。ほとんどが帰省客のようだ。島にはタクシーがない。バスが2時間置きに走っているだけである。周囲16キロの島を自転車で走ると3時間ほどで回ることができる小さな島に、村は海沿いに8か所残っている。港で自転車を借りて、まずは中心的な町と言われる笠島に向かった。途中、端整な塩飽島勤番所に魅かれ立ち寄ることにした。大きな長屋門の入り口から建物の正面玄関が見える。これは江戸時代から続く勤番所で塩飽島諸島の「人名」(豊臣秀吉が水軍の活躍を褒め大名でもない小名でもない人名として特権を与えた)650人が島の政治を司ってきた海の政所である。勤番所は広い部屋で構成されており、仕事場として機能的な間取りであった。部屋はいずれも庭に面して明るく開放的だ。長屋門の中にある休憩所で受け付けの方にお茶を勧められた。建物の歴史を尋ねると意外な答えが返ってきた。「丸亀から船で通っており、島のことは地元の方に聞いてください。」と。それでも、最近(昭和47年)までこの勤番所は役所だったことや、この長屋門の休憩所は元牢屋だったことなど教えていただいた。

若い男性が鉢巻き姿で休憩所にやってきた。彼は倉敷から仕事にやってきた大工であった。島には大工がいないので建物の修理は岡山の工務店に依頼している。大工仕事だけでなく、左官や屋根の仕事もやらせてもらえるので仕事が楽しいと言った。

 笠島はそこから自転車で10分ほどのところにあった。海岸沿いにメイン道路を走ると、小さな矢印で笠島と書いてあったので、その小さな道を左折するとすぐ笠島の中心に到着した。文化庁の支援を受け町の保存が進んでおり、ほぼ往時の街並みを再現している。海運業で栄えた江戸、明治時代の姿が蘇る。しかし、この町は瀬戸内にみる素朴な港町ではない。どこかの城下町を切り取って運んできたような光景に驚いた。漆喰となまこ壁で造るこじんまりした土蔵と塀が点在し、平入り2階塗屋の民家が蛇行した道に沿って並んでいる。

表玄関は重々しく梁や柱で囲っているが、少し大きめの出格子や窓格子の繊細なデザインが不思議と住まいの落ち着きを感じさせる。 塗屋の2階は虫小窓のデザインが面白い。伝統にとらわれない奔放な発想で、小さな虫小窓が4つ並んだものもあった。

基礎にはすべての家に地元の御影石が使われている。本瓦葺きの屋根といい、建物の完成度が高い。散策していると見るべきものが多い。例えば、細い道がうねっていると家や塀も同じようにうねっているが、瓦も同じように曲線を描く景観が美しい。

基礎の石を持ちだして建築していたり、端整な外観に曲がりくねった梁を現したり、軒下に彫刻を刻んだ「持ち出し」がリズムよく並んでいたり、細部に工夫とこだわりがある。

この町の落ち着きと優しさはどこから来たのだろうか。水軍というイメージから程遠いものがあった。

塩飽大工は大きな歴史の波に翻弄された塩飽諸島の歴史から生まれた。かつて海運業で栄えた塩飽諸島には大勢の船大工がいた。しかし、江戸中期、廻船業は過当競争の為仕事が減り、船大工が宮大工や家大工に転出した。明治5年、本島の総戸数881戸の内312戸が大工であった、とある。しかし小さな島では仕事がなく、岡山、香川、大阪へ出稼ぎにいく。やがて建築技術の高さが認められ、寺社仏閣や家の仕事が増え、その地で住むことになった。そのため島は高齢化を迎え人口は激減した。今、本島の人口は450人となり大工のいない島になってしまった。

この島に歴史と街並みが残り、建築文化と技能は場所を替えて今の時代に生きている。

帰りの船で、お盆のお参りをした人と再会した。今年は母の初盆が重なり実家に親戚筋が大勢集まったと言う。おいしいお酒を飲んできたようで多弁になる。船中から見える島を見ながら昔話を語る。塩飽大工の事を尋ねると、正覚寺の客殿玄関の彫刻を見てきたかと聞かれた。あれは建物も彫刻も塩飽大工が造った代表作と教えてくれた。次回機会があったら見に行こうと思う。

 

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